あふれだす

夢の話とか思った事とか、技術とあんまり関係ない事を書く。情緒不安定なタイミングで駄文を書き捨てることもある。

初夏

あじさいという曲をこのあいだ書いたんだけど、あじさいというとなぜかピンポイントに6月というイメージがある。 6月は終わってしまって7月に入り、暑さも増してゆくなかでそれは案外的を得たイメージなのかもしれないとふと思った。 梅雨明けはまだだろうが、初夏から盛夏へと少しづつ変わってゆく空気を感じる。 暑苦しさが眠りを妨げて眠れないので、ちょっとその曲のことを書いてみることにした。

この曲はいつ書いたのだっけかと見返してみれば4月18日とあった。 この間のことのようなのに、もうずいぶん経ってしまっていたようだ。

ふとした空想の中でこの曲は生まれた。ふっと世界が降ってきた。

モチーフとなった空想のなかでは、夢の中で起こった素敵な出来事に胸が踊り。 夢から覚めても、あじさいの花に当たる雨粒すら感情を持って元気に飛び跳ねているように感じてしまうほど純粋な幸福感が尾を引いている。 そんな、言葉通りすぎるほどに夢見がちな若い女性の物語がこの曲の詩だ。

この子は全てを語らない。 素敵な夢の中のあまりにも大きい幸福感と、成人しているというのに年甲斐なくそんな幸福感に現実が歪んで見える自分の幼さに対する葛藤があるからだ。 現実と向き合わなければという気持ちと、現実から逃げたい気持ちと折り合いがつかず、梅雨の空のように不安定な気持ちが自分を弱らせ、弱った自分は夢の中に逃げ場を見出して、どうしようもなく幸せな夢を見てしまう自分に呆れつつも、どうしようもなく幸せを感じてしまう。不安定な精神。 不安定な空。

しかし、得てして人間とは不完全なものだと思う。 精神も成熟度の違いこそあれど基本的に不完全で不安定なのだと思う。

安定したメンタルなど実は誰も持っていなくて、取り繕うのが上手い人と下手な人がいるだけなのではないか。表に出す人と隠す人がいるだけなのではないか。不安定な時期と安定する時期があるだけなのではないか。

不安定さを受け入れて生きるとすれば、どうすればいいのだろうか。 論理に委ねるもよいだろう。しかし、感情にマーシャルアンプを噛ませてがっつり歪ませたような感情に全てを委ねてみるのも面白いのではないだろうか。フランジャーを掛けてみてもいいかもしれない。 人間はもっと自由でいいはずだ。

ぼくはそういう人間の不安定さが愛おしいと思うし、不安定さとの葛藤とかそういうものをこの曲では表現したかったのだと思う。

この曲は終始幸せな感情に踊らされたまま終わる。 しかし、その幸福感の裏には隠れた葛藤とそれがもたらす不安定さがたしかにあるのだ。

そこまで繊細に表現できるほどぼくやぼくたちは成熟していないけれど、未熟さや不安定さが結果的に表現にスパイスを産むのがロック的な音楽の醍醐味でもあると思う。良いと思うまでやればきっと良いものになるのだ。 ポップでワルツチックな曲調だけど、そういうロックのやりかたをぼくはやっている。 そういうやり方は忘れずにいきたい。

と、適当にそれっぽい文章を書いていたら眠くなってきたので寝ることにする。 どこがほんとで、どこがてきとうかは、ひみつ。

でも、ちょっとでも興味を持ってくれたのなら、お願いです。 9/23(月/祝)に池袋Admでぼくたちモンズリーズがライブするから、できたら予定をあけておいてほしい。 あと、よかったらきてほしい。

おやすみなさい。

プロファッションニートを廃業しました

掲題の通りです。一身上の都合により昨日を以ってプロファッションニートを廃業しました。

7月末に前職の最終出社を終え、8月は有給休暇を活用してプロファッションニートの活動をしておりました。
仕事はしませんが実際には所属組織があるのでニートではないためファッションニートとなり、給与が支払われるのでプロであるためプロファッションニートとなります。

プロファッションニートとして、フィリピンのセブ島への2週間の英語短期留学、感染症の疑いによる1週間の療養、JPAのミーティング、香川うどん寺紀行の敢行などの活動をしてきました。
特筆すべき成果としては四国八十八ヶ所霊場のお砂踏み巡礼を達成したことでしょう。徳をゲットしたことでプロとしての自覚を新たにすることができました。

しかし、今後プロとしての活動が難しくなっていくこと、ファッションという域に留まらない活動になってしまうことから、この度ファッションニートを廃業するに至りました。
本日からは普通のソフトウェアエンジニアに戻ります。
皆様におかれましてはこれまでと変わらぬご指導ご鞭撻を頂けますと幸いでございます。

※真面目な退職エントリは顔本に書いたのでそちらをご参照下さい

政治とメディアに関するいくつかの考察

あんま頭良くないし、政治も法律もよくわからない愚民だけど政治に関する考察を少ししてみる。 固有名詞やそのモチーフは出してないつもりだけど、政治の話が不快ならスルーしてください。

民主主義というか、多数派を重視する国民性だと、たとえ致命的に間違っている意見だとしても多くの賛同を得た意見が強いし、良い政策が打てる政治家かどうかよりも愚民を上手く扇動できる政治家かどうかのほうがよっぽど影響力が高いと思ってる。

他の国のことは知らないけど、日本の場合、(個人的な印象だけど)多数派に寄ったメディアがとても多い気がしている。 特にテレビは広告収入に大きく依存しているからその傾向が顕著なのだと思う。 インターネットにおいても、インターネット上のメディアがSNSで拡散されるというのが一般的な情報の流れ方だけど、SNSも仕組み上は多数派が目立ちやすい仕組みになっていると思う。

メディアは編集において特定の意見を目立たせたりすることが可能なので、メディアをコントロールできると多数派をコントロールできるといっても過言ではない。 テレビとインターネットだけ抜き出してみたときの違いとして、テレビは編集で意見を扇動しやすいことに対して、インターネットだとSNSなどで誰でも自由に感想を発信できることから少数派が多数派にひっくり返ることもあり、編集の力は比較的弱いように思う。 やはり能動的に多様な意見やその根拠となる情報を集められないと良し悪しは見極められない。

メディアの力が強いと、株は誰でも買えるわけだし、支援団体とかを中継するとお金の流れは見えにくくできるし、見え難いところで政治家や政治団体との癒着が起きても何ら不思議ではないように思える。 特に民営メディアは自らが収益を立てていかないと生き延びられないので、大金が入るツテがあればどうしてもそこに依存せざるを得ないだろう。 メディアと政治の繋がりは強くなりがちだと思う。

多数派を重視する国民性が強く、かつメディアの影響力が強く、かつメディアと政治のつながりが強くいと、国として脆弱になりがちなんじゃないかなーと思うなどした。 たとえば、他国の政治団体と関連が強い組織が、日本の特定の政治団体とメディアにお金を流してある程度の政治の方向性と世論をコントロールするというシナリオは大いにあり得るように思える。(もちろん、そこまでするメリットが本当にあればの話だけど。) かといって、どれもまだ問題の本質ではないような気がしていて、根が深いなーと思うなど。政治も法律も詳しくないから仕方ないのかもしれない。 あるいは、やはりある程度強い権限を持った独裁的なリーダーに従うのが手っ取り早く安定するのではないかとも思う。

インターネットが強くなっていってメディアの在り方が変わると、政治も大きく変わっていきそうだ。