あふれだす

夢の話とか思った事とか、技術とあんまり関係ない事を書く。情緒不安定なタイミングで駄文を書き捨てることもある。

感動

実はずっと前から「感動」って言葉が安易に使われ過ぎていると感じていて、そういう場面ではちょっと居心地が悪い。 たとえば、感動のXXXを見よう!みたいな文句とか胡散臭さを感じてしまうし、まるでそれに対して感動しなければならないかのような押し付けがましさを感じてしまう。

こんなことはいまに始まったことではなく、もう十数年以上前からこんな風潮があるし、たしかにそういうコンテンツを見て感動に近い感情をもつこともあるのだけれど、それと同時に気持ち悪さを感じる。

感情は個々人それぞれが持つものであって、そのコンテンツを見て何を感じるかは本来自由であるはずなのに、そこにバイアスをかけられるのが不快なのだと思う。 あと、感動って言葉で片付けられて、そこに本来感じたはずの感情がマスクされて見えなくなることの寂しさや、同調的に誰もが口を揃えて感動と口にすることに気味の悪さも感じる。

少なくとも自分は、この風潮のなかで、感動という言葉を使いづらくなってしまったし、感動という言葉を使ってくる人を警戒するようになった。

本来であれば、感動した場面では素直に感動したと表現しても良いはずで、たとえその感情の表現として感動という言葉がシンプルすぎるものであったとしてもそれは間違ったものではないし、 たとえば率直にポジティブな感想を手早く伝えたい場面などでは、それは適切な表現のひとつであるはずだと思う。

だけど、このようなあまりに使われすぎた感情表現は薄っぺらく聞こえてしまうものだと思うので、本当に感動した場面で感動という言葉を使うことに躊躇してしまう。困る。

……といったことを昔から感じていたのだけど、オリンピックの報道で改めて思ったのでした。